ジャラシュ ジャラシュ県 ヨルダン アジア


ジャラシュ(ジェラシュ、جرش, Jerash)はヨルダン北部の都市でジャラシュ県の県都。首都アンマンからは北へ48kmの位置にある。ジャラシュ県の風土は多様で、標高が1,100mを超える高く寒冷な山地から、標高300mほどの肥沃な谷間などがあり、農耕が盛んである。ジャラシュの町は標高600mの丘にある。

ジャラシュは古代にはゲラサ(Gerasa)と呼ばれていた。シリア南部のデカポリス(十都市連合)のうちの一つであり、現在も古代ローマ時代の都市遺跡がよく残っている。

2004年の国勢調査によれば、ジャラシュ市の人口は31,650人でヨルダン国内で14番目に人口の多い街である。ジャラシュ県の人口は153,650人で、人口密度はイルビド県の次に高い。ジャラシュの人口の多数派はアラブ人であるが、オスマン帝国時代末期にロシアから逃れてきた北カフカスのチェルケス人や、トルコから逃れてきたアルメニア人がヨルダンの他都市と比べ人口のうちで占める割合が若干多い。宗教はイスラム教が多く、次いで正教会およびカトリックのキリスト教徒が大きな割合を占める。

ジャラシュはギリシャ・ローマ風の都市ゲラサ(Gerasa、別名・クリュソロアスのアンティオキア、「金の川沿いのアンティオキア」、Antiochia on the Chrysorhoas)の廃墟があることで知られる。ゲラサはローマ時代、デカポリス(十都市連合)と呼ばれた東部辺境の都市群に含まれていた。ジャラシュは遺跡の大きさや発掘の大規模さ、保存状態の良さから「中東のポンペイ」との異名もあるが、ポンペイと違い自然災害で埋もれたわけではない。ジャラシュは中東のローマ都市遺跡の中でも保存状態が良く重要な遺跡の一つである。

近年の発掘調査ではジャラシュは青銅器時代(紀元前3200年から紀元前1200年)には集落があったことがわかっている。ヘレニズム期にコイレ・シリア(シリア南部)はセレウコス朝シリアやプトレマイオス朝エジプトの争奪の地となったが、これらの王朝によりギリシャ風の都市が多数作られた。ジャラシュもこの時期に造られ「アンティオキア」と名づけられた町の一つであった。紀元前63年、古代ローマにより征服された後はシリア属州の一部となり、近隣の都市とデカポリス(十都市連合)を組んだ。90年にはフィラデルフィア(現在のアンマン)とともにアラビア属州に移された。ローマ帝国のもとでこの地方の治安や平和が保たれたことにより(パックス・ロマーナ)、人々は経済活動や公共施設の建設に時間や労力を割くことができ、交易が発達し都市基盤が整った。

1世紀後半、ゲラサは交易や農業で大いに発展した。106年にはトラヤヌス帝が新たに作ったアラビア属州を貫くローマ街道がゲラサに通り、交易はますます栄えた。ハドリアヌス帝は129年から130年にかけてゲラサを視察巡幸している。凱旋門(ハドリアヌスの凱旋門)はこの際の訪問を記念して建てられた。ラテン語による碑文には、皇帝を護衛する騎馬兵がこの地で越冬した間に、神々への奉納を行ったことが記録されている。ゲラサは、最盛期には城壁内の広さが80万平方mに達するまでに拡大した。

614年にサーサーン朝ペルシャがシリアに侵入したことによりゲラサは急速に衰退したが、イスラム帝国による征服やウマイヤ朝の支配下でもジャラシュの都市活動は活発に行われていた。746年、大きな地震がジャラシュとその近郊を襲い、以後ジャラシュは再建されなかった。

十字軍の時期には、アルテミス神殿跡などジャラシュの遺跡の一部は要塞となっている。アイユーブ朝からマムルーク朝、オスマン帝国の時期には小規模な集落があるのみだったが、19世紀後半以後はシリア各地からの移民やロシア領の北カフカスからの難民が入植し始め、新しいジャラシュの街が遺跡の東隣に作られた。1920年代からは現在に至る遺跡の発掘が始まり、一部土に埋もれていた都市が姿を現した。20世紀後半にはパレスチナ難民を合わせてジャラシュの人口が拡大した。
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