について アブリトゥス城
より古い集落の上に築かれたローマ都市
アブリトゥス考古保護区はブルガリア北東部、ラズグラトの約2キロ東にあり、先行するトラキア人の集落跡に建てられたローマ都市の遺構を保存しています。ラズグラト地域歴史博物館は、ローマ都市の成立を紀元1世紀後半とし、下モエシア属州の重要な中心地の一つだったと説明しています。ここはオデッソス、マルキアノポリス、ニコポリス・アド・イストルム、セクサギンタ・プリスタなどの古代都市を結ぶ道路の近くにありました。写真映えする石壁を見るだけでなく、下ドナウ地域の道路、行政、軍の移動に地方都市がどう関わったかを考える手がかりになります。
アブリトゥスは、251年の夏に近隣で起きた戦闘と深く結びついています。博物館の説明によると、ローマ軍はゴート族に大敗し、皇帝トラヤヌス・デキウスと共同皇帝で長男でもあったヘレンニウス・エトルスクスが戦死しました。この出来事はアブリトゥスをローマ帝国全体の歴史に位置づけますが、戦闘は都市の近くで起きたもので、現在の遺跡内で見学できる再現劇ではありません。今日の遺構が伝えるのは、都市の拡大、防御、宗教生活、破壊、再利用が何世紀にもわたって続いた歴史です。
城壁の規模とその後の時代
4世紀初頭、コンスタンティヌス1世の時代に、アブリトゥスは大規模な防御壁で囲まれました。博物館は、城壁に囲まれた区域を約15ヘクタール、門を4か所、塔を35基、城壁の長さを約1,400メートル、厚さを2.1~3メートルと説明しています。胸壁を含む高さは約12メートルに達したとされます。こうした数値から後期ローマ都市の規模を想像できますが、現在残るものは断片的です。保護区は屋外の考古遺跡であり、すべての建物が完全に復元された城塞ではありません。
後期古代のアブリトゥスは複数の攻撃を受けました。博物館の年表は376~378年のゴート族の侵入、447年のアッティラ率いるフン族の侵入を記し、586年の侵攻で都市が最終的に破壊されたとしています。その後、9世紀末から10世紀初頭にかけて廃墟の上にブルガリアの要塞が築かれ、11世紀まで使われました。こうした層があるため、「ローマの遺跡」とひとくくりにはできません。考古学的景観は複数の時代にまたがり、博物館の常設展示は後期旧石器時代、古代、中世までの地域の出土品も紹介しています。
博物館、屋外展示、金貨の発見
地域歴史博物館は、保護区を遺構、常設考古展示、インタラクティブ博物館、屋外の石碑展示を組み合わせた場所として案内しています。ブルガリア語の博物館ページによれば、常設展示は地域で最も古い考古資料が確認された時代から始まり、多くの石碑や碑文はローマ時代に属します。後代の墓碑や建築部材にはキリスト教、イスラム教、アルメニア語の碑文もあり、地域社会の多様な歴史を示します。博物館は保護区内の見学ポイントを結ぶルートも公開していますが、保存作業や現地工事で通路が変わる場合があるので、到着時にその日の見学経路を確認しましょう。
博物館が紹介する特筆すべき発見の一つは、東側城壁の近くで1971年の発掘調査中に見つかった、5世紀の金貨835枚の埋蔵物です。貨幣はソリドゥスと呼ばれ、博物館はブルガリアで見つかった後期古代の金貨埋蔵物として最大、後期ローマ帝国全域でも最大級の一つと説明しています。金貨の全てが屋外に展示されていると考えるべきではありません。出土資料や地域史を解説する場所は博物館の常設展示です。この発見は発掘が歴史理解を変えうることを示し、城壁、門、屋外の石材は古代都市の大きさを実感させてくれます。
開館時間、所在地、訪問計画
公式の来館案内によると、アブリトゥス考古博物館は季節によって時間が異なります。4月1日から10月30日までは毎日午前9時30分から午後6時まで、11月1日から3月31日までは午前9時から午後5時までで、冬季の土曜・日曜は事前申請が必要です。所在地はラズグラト市アプリルスコ・ヴァスタニエ通り70番地と案内され、冬の週末訪問を相談する電話とメールも掲載されています。これらは博物館が現在公開する時間です。出発前に入場方法、料金、屋外保護区のルートが開いているかを直接確認してください。ウェブの案内があらゆる条件を恒久的に保証するものではありません。
ローマ属州の都市生活、考古学、ブルガリア北東部の歴史に関心があるなら、アブリトゥスは時間を取って訪れる価値があります。屋外の遺構と博物館の双方を行程に入れ、道路脇の写真撮影だけで済ませないようにしましょう。凹凸のある地面に合う靴を履き、案内された道を歩き、壁に登ったり露出した石を動かしたりしないでください。この場所の魅力は、戦略的なローマ都市、その後の防御施設、発掘で出土した資料、それを一般に伝える現代の博物館が結びつく点にあります。時代の流れを追って見ると、アブリトゥスは皇帝が戦死した近郊というだけでなく、戦闘の後も人々の生活と記憶が続いた歴史的景観として見えてきます。