バンテアイ・クデイ Siem Reap Province カンボジア アジア


バンテアイ・クデイ(Banteay Kdei、クメール語: ប្រាសាទបន្ទាយក្តី ; プラサット・バンテアイ・クデイ、Prasat Banteay Kdei)は、カンボジアのアンコール遺跡において、「チャンバ族の砦」(英: "Citadel of Chambers")、または「僧房の砦」(英: "Citadel of Monks' cells")として知られる仏教寺院である。この寺院はタ・プロームの南東、アンコール・トムの東に位置する。12世紀半ばから13世紀初頭のジャヤーヴァルマン7世(在位1181年-1218年頃または1219年ないし1220年頃、死後 "Maha paramasangata pada" と称された)の統治中に築かれたものである。バイヨン様式で、構成はタ・プロームやプリヤ・カーンに似るが、複雑ではなく、より小さい。その構造物は2重の周壁に囲まれており、そして塔門から2重の中央回廊を構成し、東面前方には前柱殿がある。

この仏教寺院複合体は、これまで不完全な建設およびその建築に質の悪い砂岩が使われていたために荒廃し、現在修復を受けている。バンテアイ・クデイは1960年代まで何世紀にもわたってさまざまな間隔で僧侶により占有されていた。

バンテアイ・クデイは、多くの アンコール寺院の1つであり、400平方キロメートル(150平方マイル)のアンコール遺跡公園内に位置する。クメール王朝時代におけるアンコールの古代都市はトンレサップからクーレン丘陵にかけて広がる1,000平方キロメートルの広大な領域にわたっている。この寺院はタ・プロームの東の塔門(ゴープラ、gopura)より600メートルとなる経路沿いに通じている。この経路はバンテアイ・クデイの西塔門入口につながる。寺院はアンコール・トムの東3キロメートルにある。

クメール王朝は802年から1431年の長きにわたっており、当初12世紀末まではヒンドゥー教徒の敬虔な信仰のもと、その後は仏教徒の厚い信奉のもとにあった。その時代に壮大な寺院が建造されるようになり、1191年まではスーリヤヴァルマン2世の統治中において、その後12-13世紀にはジャヤーヴァルマン7世のもとにおいて頂点に達した。バンテアイ・クデイを含め、多くの仏教寺院が12世紀半ばから13世紀初頭に構築された。ジャヤーヴァルマン7世は多くの寺院を建造した功績が評価されるが、彼はまた社会および他の職務を犠牲にした途方もない寺院の建築計画における散財が非難されている。ジャヤーヴァルマン7世は聖観音菩薩を主に崇める仏教寺院を構築した。この寺院は、ジャヤーヴァルマン7世による同時期の近隣にあるタ・プロームやプリヤ・カーン寺院の様式と同様に構築されたが、規模は小さく、ラージェンドラヴァルマン2世(英語版)により建てられた10世紀の寺院の位置に、仏教僧院複合体として築かれた。いくつかの小さな碑文は、ジャヤーヴァルマン7世および王室建築家 Kavindrarimathana により本寺院が建造されたことを証明している。

ジャヤーヴァルマン7世は、アンコールに攻め入り徹底的に破壊し支配したチャム族を倒した後、55歳で政権を握った。彼の「驚異的な活動」は、その廃墟からカンボジアの復興をもたらした。ジャヤーヴァルマン7世はまず第一にアンコール・トムにおいて首都を再建し、「偉大な建造者」と呼ばれた。彼は多くの寺院を建設する役目を果たし、それはバンテアイ・クデイとは別に、バイヨン、プリヤ・カーン、タ・プロームおよび他の多くの主要な寺院や、また巡礼者のための多くの休泊所などが含まれる。本寺院がその現存する場所に築かれた理由はわかっていない。しかしながら、その寺院がアンコール・ワットと同時期のものであることが、両寺院間およびタイのピマーイ寺院において、多くの類似点が確認されることで立証されている。寺院は、貯水池であるスラ・スランの向かい側に、西暦1181年、ジャヤーヴァルマン7世によって構築された最初の寺院とされるが、碑文の欠落により詳細は不明である。
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Banteay Kdei
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